横須賀 按針塚

異人たちの足跡 5 青い目のサムライ

ジョナサン・スウィフトの『ガリバー旅行記』や、ジェームズ・クラベル原作のアメリカTVドラマ『将軍』のモデルとなったイギリス人をご存知だろうか?17世紀初めに日本の地を踏んだウィリアム・アダムス(William Adams)は、航海士であり、水先案内人であり、貿易商であり、サムライであった。アダムスは、日本語を覚え、武士の複雑な礼儀作法を身につけ、青い目のサムライとなって250石の領地を治め、日本の家族を持った。一方で、イギリスに残してきた妻子に仕送りと手紙を送り続けたが、生きて再び会うことなく、56才で生涯を閉じた。アダムスの魂は今も、横須賀の海の見える丘に眠っている。

アダムスは日本名を三浦按針と言った。所領としていた三浦半島からその姓を、水先案内人だったことから按針と呼ばれた。日本人妻と二人の子は江戸屋敷に住み、アダムスは横須賀と江戸を行き来して、将軍、徳川家康に仕えた。家康亡き後は長崎県平戸に移って東南アジア貿易を続けたが、1619(元和5)年のシャムへの航海を最後に、体調を崩して臥床し、平戸で没した。遺産はイギリスの家族と日本の家族に等分し、定かではないが、アガサという名の妾とその間にできた子にも、某かが譲与された。

按針塚

アダムスは1620(元和6)年に長崎県平戸で亡くなると、外国人墓地に埋葬されたが、息子ジョセフは父の遺言にしたがって、横須賀にその墓標を建てた。アダムスの持念仏が安置されている横須賀浄土寺では、1840(天保11)年の江戸時代末期までアダムスの法要が営まれていたようで、江戸屋敷があった日本橋按針町の人々が寄進した打敷(ご本尊の前机にかける敷物)が残っている。しかし、横浜開港後に来日した居留地のイギリス人らがアダムス探しを行った頃には、すでに墓はひどく荒廃していたらしい。居留地で発行されていた英字雑誌The Far Eastには、その時の様子が紹介されている。後に地元の有力者とイギリス領事館が協力して大規模な寄付金活動が行われ、1906(明治39)年に、現在の按針塚周辺の公園(塚山公園)が整備された。墓石は武士の墓の一般的な形態である宝篋印塔であり、アダムスと日本人妻のゆきの墓標(供養塔)が並んでいる。

按針塚のある塚山公園へは、京急線按針塚駅から徒歩20分の上り坂を行く。アダムスはこの丘に登って、当時は寒村だった横浜、そしてその先の江戸湾を見渡していたのかもしれない。アダムスの墓は、その言葉通り、東京と東京湾を一望できる景勝地にある。

「我死せば、東都を一望すべき高しょうの地に葬るべし。さあらば永く江戸を守護し、将軍家の御報恩を泉下に奉じ奉らん」

塚山公園からの眺め

塚山公園は横須賀湾近くの丘の上にあって、空気の澄んだ日には、西に富士山、北東に東京スカイツリー、東に房総半島を望む。丘のすぐ下には美しい棚田、海側には停泊している船が点々と見える。また春は、丘全体が桃色に染まり、桜の名所として賑わう。

次項では、三浦按針になってからのアダムスと、来日以前のアダムスについて見ていきたい。

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